登校拒否・ひきこもりー地域で出会う「生活」

朝日新聞「第2山梨」面やまなしに想う(第1回)(2006.11.11朝刊掲載)

 

 都留文科大学の教員として9年目を迎えた。しかし、山梨県内に限らず、私が「地域」と本格的にかかわりを持ったといえるのは、わずかにここ3年弱だ。
 04年の3月、思うところあって都留市内の遊休農地を借り受け、ゼミ生たちとささやかな農業(畑作)を始めたことが大きな転機となった。私は教育学の研究者だが、40代半ばという年齢のなせるわざか、ここにきて、私の雑多な研究関心には、「人が生きるとは?」という大きな問いが通底しているのだと自覚するようになった。そして、この問いが、私を「地域」へと突き動かす。なぜなら、「人が生活し、子どもが育つのは『地域』においてだ」という単純明快な真実が、ようやく垣間見えてきたからである。私が二十数年来かかわりを持ち、こだわってもいる研究関心の一つに、「登校拒否・ひきこもり」の問題がある。この問題は、この国の教育と社会の病理をあぶり出してくれるのだが、最近になって、その背景に、「『生活』を見失った子ども・青年たち」の広範な存在があると考えるようになった。人が生き、生活するということ。何げない日常を送るということ。それがどういうことかが見失われている。
 登校拒否やひきこもりの子ども・青年たちのなかには、小さな農村で、あるいは小さな島で、そこに住む人々の暮らしと生業に触れて、元気を回復し、前方へ一歩を踏み出す事例が少なくない。そこで彼ら・彼女らが出会ったものは、いったい何であったのか。それは、「生活」そのものなのだ。人が生き、生活するとはどういうことか。その原型が、凝縮されたかたちで、小さな農村や島にはある。彼ら・彼女らはおそらく、瞬間的に、また直感的に、「生活」の何たるかを五感で感じ取るのだろう。そして、こうした看取を可能にするものこそが、「地域」にほかならない。周囲を山や川に、あるいは海に囲まれたほどよい小ささと、まとまりのある空間。職住の一致。生業としての農業や漁業。そこで人々は、少なくとも半世紀前までは、生まれてから死ぬまで、ほぼ完結した生活を営んできた。

 その「生活」が、かろうじて残された空間。「地域」をいま、あえてこのようにとらえてみたい。

 

(にしもと・かつみ=都留文科大学教授)
◇西本さんは兵庫県出身の44歳。専門は教育学。最近は「地域と教育」をテーマに、地域と学校が一緒に元気になる道筋を探っています。東京都在住。
 

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